気田川カヌー

11月下旬、日曜日の夜、家事をひととおり終えて家族の寝る布団を敷いてから、旅行の荷物を車に積み込んだ。自分も布団に入りたくなるのを我慢し、西へ向かって出発する。

俺「明日まで会えなくて寂しいけど、行ってきます」
妻「寂しいなら行かなきゃいいんじゃない?」
俺「行かなくていいような気もするんだよ。でも、人生には行かなきゃいけない時がある」
妻「よく分からないけど行ってらっしゃい」

そんな会話を交わして車に乗り込み、コンビニでコーヒーを買ってから出発した。浜松までは休憩込みで約4時間。暖かな我が家を離れて、なぜ冷たい川なんかに俺は行くのか、と考えると気分が重苦しい感じもある。いや、そんな甘ったれた心を叩き直すために川へ行くのだ。甘ったるいコーヒーをすすりながら新東名高速をぐんぐん西へ進む。

藤枝を過ぎたあたりで、かすかにカラカラという音がきこえた。運転席のメーター内に見慣れない黄色いランプが点り、あわてて掛川PAに車を停める。取扱説明書によれば「エンジン警告灯」とのことで点検が必要らしい。時刻はすでに23時、業者はどこも開いていない。ひとまず浜松までは速度を落として走り、川下りのあとにディーラーへ持ち込むことにする。

浜松市の山間部にある「道の駅 いっぷく処 横川」で車中泊。駐車場の灯りは眩しいが、夜空の星は千葉県よりも多いように見える。放射冷却が強まり、吐く息が白い。ダウンを着込んだままで寝袋に潜りこみ、さらに毛布をかけると快適な寝床ができあがった。翌日の川下りの段取りや、千葉にいる家族のこと、エンジン警告灯のことなど、次々と心配事が押し寄せてきて寝付けない。しかしいつのまにか眠ったようだった。

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一眠りすると不安もいくらか和らぎ、前向きな気分になった。魔法瓶の熱湯でカボチャのポタージュを作り、コンビニおにぎりの朝食をとる。車で山道を少し走って気田川(けたがわ)にかかる橋をわたり、秋葉神社の下社前駐車場に着いた。カヌーを買って3年、ついに憧れの清流にやってきた、と感慨に浸る余裕もなく大急ぎで荷物と舟をおろした。車を修理したり場合によっては新幹線で帰ることも考えると、川で遊べる時間はそれほど長くない。タクシーで上流の気多(けた)へ向かうが、車窓から見える気田川の水位があまりにも低い。けっこうな距離のライニングダウン(浅瀬で舟をおりて歩くこと)を強いられるように思い、予定よりも手前でタクシーをおりた。

河原で舟を組み立てて荷物を積み込む。川に浸けた水温計は13℃を指した。川底がはっきり見えるほどに水は透きとおっているが、水位はやはり低く、大した瀬もなさそうだ。コーミングカバーを着けずに出発。早歩きくらいの速さで舟は流れる。

減水期と増水期の水位差が大きいと河原は広大になる、と知識はあったが、ここまで広がるのか、と夏には川底だったはずの河原を眺める。石ばかりの風景のなかに黄色っぽい小鳥が時々現れた。警戒心が強いのか、大して近付かないうちにチチッチチッと鳴きながら波状飛行で去っていく。色以外はハクセキレイによく似ているからキセキレイだろうか。さらに川を下っていくと、頭上を横切る電線に何かの猛禽類がとまっていた。キセキレイが警戒するのも分かる。

川幅が広がって水深がわずか数センチになると、舟を曳いて歩こうにも川底の石の抵抗があって苦労した。水深が20センチほどになれば舟は辛うじて浮く。もうすこし水深が増したところで舟に乗り込んだ。それにしても透明度の高さがすばらしい。おかしな喩えだけれど、水道水のように透きとおっている。水深が増しても緑色に濁ったりせずに青く澄んでいる。昔に比べると気田川は濁りが増したという新聞記事を以前読んだが、それは増水期の話なのだろう。秋の減水期には、自分は見たことがない透明度の川だ。

しかし困ったことに、水の綺麗さにはすぐに慣れてしまった。どんなに綺麗な水が流れていようとも水面下のことであり、自分は水面よりも上にいる。落水に備えてパドリングジャケットを着込んではいるが、この冷たさでは自ら進んで水に飛び込む気にはなれない。多少は濁っていようとも真夏の温かな川に来るほうが水面下の世界を楽しめそうだ。冷たい水の上をただ流れていく川下りには、きっと遠からず飽きてしまうだろう。来年以降の川下りのやりかたをちょっと考え直す必要がある。

9キロほど漕いだところで秋葉神社の下社に到着。荷物と舟を合わせて40キロ近い重量を背負い、干上がって果てしなく広い河原を歩いた。川沿いのキャンプ場にはたくさんのテントが並ぶが、どのテントも川から遠く離れているのが可笑しい。川へ来たのに川を無視しているようだ。雨予報でないかぎり、もっと川が見えるように近付いても良さそうなものだけど。

荷物を車に積み込んでいると隣の車の女性に声をかけられた。かつて千葉県に住んでいたのでナンバープレートに親近感を覚えたのだという。秋葉神社のご利益について熱心に語ってくれたが、残念ながら俺はもう参拝する時間がない。秋葉神社は勝負事の神様だというが、勝負を避けて生きてきた俺には神様のほうでも興味がないだろう。いつか一勝負する気分になったときは参拝してみよう。

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浜松市街へ車を走らせた。ディーラーで車を見てもらうとピストンリングに異常があり、エンジンオイルが完全に空だという。応急処置としてオイルを補充すれば千葉までは走って帰れるはずだから、帰ったらすぐに修理に出してほしいとのこと。とりあえずはエンジン警告灯が消えたことで、前日からの不安感がようやく収まった。安心して高速に乗り、掛川PAでチャーシューメンを食べて満足した。あとはもう暖かな我が家へ帰るだけだ。なるべく2000回転以下で走るようにとディーラーでアドバイスをもらい、速度を上げずに新東名を走った。どこまで走っても警告灯が点くことはなく、これなら千葉まで帰れそうだと安堵する。

しかし富士川を渡ったあたりから、にわかに様子がおかしくなった。回転数を低く保っていても異音や振動がある。タッタッタッという異音から、ズガランッズガランッという金属的な異音へ変化し、やがてズギャバンッズギャバンッという轟音に変わった。ステップワゴンってこんな音が出るのか。こんな音が出ていいはずはない。エンジンが火を噴かないことを祈りながら最寄りのインターチェンジまで低速で走り、車を停めて自動車保険のロードサービスを呼んだ(高速道路上で呼んでも良かったと今は思う)。レッカー車には原則として同乗できないと保険会社に電話で言われ、この山間部でどうやって帰ればいいのかと途方に暮れる。ただし交通手段がないときには例外的に認められる場合もあるといい、結局は同乗可能となった。助手席に乗り込むと見晴らしがよく、なかなかに面白い。

自宅出発時には予想もできない波瀾に満ちた旅となってしまい、参ったなと思いつつも、楽しくて仕方がなかった。決してトラブルを待ち望むわけではないけれど、この程度の小さなトラブルに難なく対応できる力量は持っておきたい。自分の乏しい想像力をはみだすような出来事にうろたえながらも対応していくと、自分の経験として蓄積される。そういう試行錯誤を今後も面白がっていきたい。

話し好きらしい運転手さんと談笑しながら東へ向かって走り続ける。先ほどまでは透明な水の上を進んでいたカヌーが車に載せられ、さらにレッカーの荷台に載せられて富士山麓の夜景のなかを進んでいくのは、自分の想像力を超える不思議な光景だった。