多様性について

初めに少し自分の身体的な特徴について書く。

女性化乳房」と呼ばれる良性疾患は、男性が一時的にホルモンのバランスを崩し、乳腺が発達して胸が膨らむことをいう。思春期に発生することが多く、自分の場合は13歳のときに胸が膨らみ始めた。夏になり水泳の授業が始まると上半身の裸体をさらすため、他人に気付かれはしないかと怯えたことを覚えている。受診した病院の医師からは自然に収まってくると言われ、その言葉通りにやがて膨らみは徐々に収まり、高校へ入る頃には外見で分からないほどになった。

尿道下裂」と呼ばれる先天性の形態異常は、男性の尿道が先端部よりも手前に形成されることをいう。自分の場合はとても軽度ではあるが、保健体育の教科書に載っていた男性の形状とは少し異なる部分があり、19歳のときの入院(足の手術に伴うカテーテル挿入)をきっかけに尿道下裂だと知った。女性化乳房のように他人に見られる部位ではないものの、どうも一般的な男性に比べると自分の身体はあちこち違うようだな、と考え始めた。

大部分の身体的特徴は男性的で、内面も男性的だから、つまり自分は男であるとは考えていた。しかし男性的とはいったい何だろう。男女の境界線は明確ではなく、僅かに女性的な部分が入り交じっているようにも思えた。5人きょうだいのうち4人が女性、自分だけが男性として生まれ、しかし身体には少し特徴的な部分がある。「性別にはグラデーションがあり、明確に二分できるものではない」という考えを持ち始めるのは自然なことだった。

歳月を重ねれば理解できる物事がある一方で、いくら歳月を重ねても理解できない、むしろ絶対に理解できないだろうと確信する物事もあり、自分にとっては「性」がそれに当たる。自分自身の性についても分からないし、当然、他人の性も分からない。あまり向き合いたくないとさえ思う。自分が何をもって男と規定されるのか、かりに男であるなら、男としてどう振る舞うべきなのか、そもそも男とは何なのか。そんなものと向き合わずに生きてもいいのではないか。

結婚して家庭を持った今でも考え方は変わっていない。家族4人だけの小さな閉じた世界の中で、日頃、自分や家族の性について意識していない。妻と子どもと自分がいて、個々人がそれぞれに代替の利かない存在であること、それで十分ではないかと思える。好きな人と暮らしていて毎日とても楽しいときに、その好きな人の性別を改まって意識することもない。子どもたちと楽しく遊んだり、子どもたちから頼ってもらえるときに、自分の性別について意識することもない。

性別にグラデーションがあるとすれば、心や身体はそのグラデーションのどこかに位置づけられるはずだが、どの位置にあるのかを意識する必要がない。個人がその人だけの固有の性を持っていて、ほかの誰の性とも異なっている。誰もが自分自身の性を分からないし、他人の性を分からないし、分からなくてもいいのだと思う。しかし現状では多くの人々が男女のどちらかに分類されることを強いられている。今まではそういうものだったのだとしても、これからもそれでいいとは思えない。

こうして長々と文章を書いている自分は、決して博識な人間なんかではなく、たとえばLGBTQがそれぞれ何を意味するのかも正確には理解していない無知な人間である。そして繰り返し書いてしまうけれど、自分の性も分からないし他人の性はもっと分からない。敢えて一般的な区分に沿って言うのなら自分は男性であり女性と結婚している。LGBTQの人々が何に苦しんでいるのか理解は浅いから、本当は自分は何も言うべきではないようにも思う。

しかしLGBTQの人々の運動の象徴であるレインボーカラーは、つまり多様性を表していて、自分が考えてきた性別のグラデーションとも重なる部分があるのだろうと思った。その意味においては自分もまたレインボーカラーのどこかには位置しており、すべての人々がレインボーカラーのどこかに位置している。

誰もがレインボーカラーまたはグラデーションのどこかに位置していて、ほかの誰とも重ならない固有の性別を持っていること、だから他人や自分自身をそう簡単にカテゴライズしてはならないし、性別についての言及には本当に慎重であるべきこと、しかし性別への意識とは切り離されたところで個々人が互いに尊重しあうことの可能性、などについて考え続けている。考え続けたところで結論らしい結論も出ないままに一生を終えるのだとは思うが、それでも日々考えている。

性別について考えをめぐらす契機となったのは、ひとつには自分自身の特徴的な身体もあったのだけど、他人の発言や文章から受けた影響も少なからずあり、その中のひとつには今日亡くなった若い人の言葉も多々あったと記憶している。若いのに本当によく物事を考えていて発信能力のある人だと尊敬していた。今はもういないのだと理解するには時間が掛かる。大いに影響を受けた者の一人として、なぜ彼が孤立感を深めてしまったのかとは考えてしまう。会ったことも話したこともない人間だけど、俺はあなたの考え方に賛同しますよ、と伝えたかった。