犀川カヌー

 数ヶ月前から計画を練ってきた静岡県の気田川カヌー旅は、前日の大雨洪水警報により断念した。川下りまでに水位が下がる可能性もあるが、濁りは数日とれないだろう。せっかく片道4時間かけて行くのだから、透きとおった水に浸かったり泳いだり潜ったりしたいのだ。泳げないから主に浅瀬で浸かるのだけど。

 千葉県から片道4時間で行ける別の川を「全国リバーツーリング55マップ」で探した。前から考えていたのは新潟県の魚野川だ。川に並行して上越線が通っており交通の便が良いし、豪雪地帯の谷川連峰を水源とするために水量が豊富、水質も良いらしい。しかし55マップによれぱ7月上旬からの1〜2ヶ月は鮎釣り師が多く、川下りには不適とのこと。

 気田川や魚野川には及ばずとも水がそこそこ綺麗で、川沿いに移動手段があり、カヌー歴3年弱でも下れる難易度の高くない川。その条件に合致したのが長野県の犀川だった。

 博物館や買い物に寄り道しながらキャンプ場へ向かう。河原にテントを張ってもよいが暑さで十分な睡眠をとれない心配があり、念のため標高1000mのキャンプ場を予約したのだった。スーパーで買った稲荷寿司をつまみながら焚き火をおこし、コッフェルのふたで鶏もも肉を焼き、よなよなエールを飲んだ。19時にはもうやることがなくなりテントに入る。

 山奥にいるせいかラジオの電波が入りづらい。韓国語のAM891kHzだけは鮮明に聞こえた。同じく電波の弱いスマホで調べてみると釜山にあるKBSという放送局のようだ。韓国語は分からないがKBSのニュースを聞いたり、竹中労「ルポライター事始」を読んだりしながら眠りについた。半裸で寝ていたが深夜に肌寒さで目をさまし、寝袋にくるまった。

 6時に起床。あんパンを食べながら荷物をかたづけ、信州新町の犀川へ車を走らせる。いつもの川下りではゴール地点に車を置いてファルトボートを背負い、スタート地点まで電車やバスで移動している。今回も川沿いを走るバスを調べてみたが、唯一のコミュニティバスは平日しか運行しておらず、公共交通機関での移動は難しいようだ。幸いにもゴール地点の大原橋の近くに、ひじり観光タクシーの営業所がある。ここにお願いすればきっと大丈夫だろう。

 大原橋の下をくぐる細道を通っていくと、犀川の右岸の大きな河原に出る。車をとめてファルトボートを背負い、大原橋まで歩いてからタクシーを呼んだ。大自然にこれから挑むというときにスマホでタクシーを呼ぶなんて軟弱な、と思ったりもしたが、ほかに移動手段がないので今回は仕方がない。大原橋から川の駅さざなみまでは約15分、タクシー料金は4240円(迎車の200円を含む)。「雨が降らないから水が少ないね」と運転手さんが言う。見慣れていない俺には結構な水量に見えるが、今年の犀川は渇水らしい。

 川の駅さざなみは道の駅に似ている施設だが、カヌーやラフティングの拠点にもなっている。ラフティングのスタッフさんに声をかけて、芝生でファルトボートを組み立てた。まだ9時だというのに強烈な暑さでとめどなく汗が流れる。体力の消耗を抑えるため将来的にはパックラフトなどの超軽量カヌーも検討したい。のろのろと準備して10時半にようやく河原へ降りる。スタッフさんにも「今日は浅いから気をつけてください」と言われた。

 釣り師の人たちと「暑いねー」「暑いっすねー」と会話を交わした。これまでに川で会った釣り師の方々はとても友好的だ。近付くと竿を上げてくれたり、時にはカヌーを川へ降ろすのを手伝ってくれたりした。川下りを何十年と続けていけば敵対的な釣り師に会うのかも分からないが、そのときはきっとへらへら笑って遣り過ごすのだろう。野田知佑のように釣り師を川へ投げこむ腕力は持ち合わせていない。

 犀川にカヌーを浮かべて出発。川の中心へ漕ぎ進めると流速が増していき、あとは漕がなくとも十分なスピードが出る。この日の信州新町の最高気温は34℃だったが体感は40℃くらいあり、あまりに暑いので両腕を川に浸したまま奇妙な姿勢で流れていく。川は薄緑に色づいているが、これは上流に複数あるダムのせいだろうか。都市部の川のような嫌な匂いはなく、水に手を入れることに抵抗は感じなかった。

 カヌーの前方には百均のまな板と合体させたGoProを取り付けた。今回は75mmの延長アダプターを利用したが、もうすこし長いほうが視界が開けるように思う。GoPro用の製品は高価なのが難点だが、代わりに汎用的なカメラネジの一脚などを固定できれば安価に作れるかもしれない。良い方法がないか次回までに考えてみる。

 1級〜1.5級と思われる瀬に差しかかるたびに緊張で体がこわばった。波高は大して高くないが、水量と流速があるために迫力がある。転覆して水中の岩に頭をぶつけ、気絶したまま水中をどんぶらこと流れていく光景を想像する。山と溪谷社が最近出版したアウトドア死亡事例集「これで死ぬ」のように、カヌー版の「これで死ぬ」を読みたいな、しかし俺が事例の一つにはなりたくないなと必死でパドルを振り回す。頭の中で、たま「どんぶらこ」の曲が流れて止まらなくなる。どんぶらこ、どんぶらこ、あのこは朝までバタフライ。なんとか転覆せずに瀬を乗り切った。

 コサギやアオサギ、セグロセキレイが水辺に佇んでいた。サギは魚を、セキレイは虫を探しているのだろう。青空に白い綿雲が浮かび、ミンミンゼミがたえまなく鳴き続ける。気温はさらに上がって体感55℃くらいあるが、しかし爽やかでたいへん気持のよい正しい夏休みである。川で泳いでも良さそうだが残念ながら俺は泳げない。

 川の両側では所々で地滑りや見事な露頭が見られた。陸からここへ近付くのは難しそうだが、川からは容易に近付くことができる。地層の柔らかい部分は水に削られているが、これがどういう地質なのか俺はよく分かっていない。地学をちゃんと勉強しなければと反省する。

 川になぜ瀬と淵があるのかも理解していない。傾斜や川幅などの要因の組み合わせだとは思うが、河川工学などの本を読んで勉強したい。川下りに限った話ではないのだが、旅行先で見聞きしたことをきっかけに興味を持つことが多く、そのきっかけを新たに見つけるために旅へ出ている気がする。旅行先では興味を持ったが帰宅すると忘れてしまうことも多く、忘れないためにこうして書き残している面もある。

 川旅の後半では流れがいくらか穏やかになり、瀬はあるものの川幅が広く、たいていの瀬はよけて通ることができた。終盤へ差しかかると川底はよく見えるが通過に差し支えない程度のちょうどよい水深が続き、透きとおった水のうえを飛ぶようにカヌーは進んでいく。波風の立たない平滑な水面をこのまま流れていくように俺の人生も平穏無事に過ごしたいものだ。しかし良い時間はあまり長くは続かずにゴール地点へ着いてしまった。出発から2時間半で12.3km。水温を計り忘れていたことに気付き、釣り用の水温計を川に沈める。23℃。

 昼食のおにぎりを買ったコンビニで、店主に近くに温泉がないか尋ねた。ここから橋を三つ分のところの温泉「さぎり荘」が良い、ジンギスカンも食べられるよ、と教えてもらった。川の近くに暮らしていると距離の表し方として「橋を三つ分」と言うのか、と感動を覚えた。Googleマップで温泉を探しても良かったのだが、人に聞くことで得られる情報もある。スマホにどこまで頼るかのバランスは今後も引き続き課題とする。

 温泉ですっかり綺麗になり、心地よい疲れはあるが軽くなった頭と体で運転席に乗り込む。千葉までの果てしない道のりをただ帰るだけではつまらない。妻の好きな栗おこわを買える店をGoogleマップで探し、最寄りの店へと車を走らせた。