冬支度、春支度

秋から冬に切り替わったと感じるタイミングはいくつもある。こち亀の何巻かは忘れたけれど、自販機のコーヒーが温かくなると冬だなと両津勘吉は言っていた。息が白くなったら冬、コンビニに防寒具が並んだら冬と言ってもいい。冬の始まりに明瞭な定義があるわけではなく、冬の始まりを実感するタイミングがどこかにある、というだけの話だ。布団から出られなくなると冬だと言ってみたいが、気温にかかわらず朝は布団から出られない。

毎年とくに冬を乗り切るための特別な準備をするわけでもなく、ただ寒さをこらえて春を待ちわびていたが、今年の冬は奮発してダウンパーカーを買った。おかげで自分史上もっとも暖かい冬となり、世間一般の冬が厳しかったのかどうかよく分からない。何の準備もできていないのに、いつのまにか春が押し寄せてきていて戸惑っている。とはいえ春を迎えるための準備といっても子どもが保育園と小学校でそれぞれ進級した以外は大した変化もない。ぼんやり部屋に引きこもっているうちに桜が咲いて散っていた。いまが冬なのか春なのか何月何日なのかも曖昧になっていく。このままぼんやりと五年十年と自宅に引きこもって時間が過ぎ去っていくのなら、それも悪くはない。

移動できない自分の代わりに、長距離を移動する鳥たちのことを考えている。自宅周辺の木々にとまっていたヒヨドリたちはもう北に帰っただろうか。三番瀬カニをつついていたハマシギたちは今頃アラスカに向かっているか、まだ日本のどこかの干潟でカニをつついているのだろうか。鳥たちの飛行経路をドローンか何かで追いかける訳にもいかないから(彼らはおそらく猛禽類を恐れていて接近する人間や物体に敏感だ)、ただ地図を見て想像を膨らませるしかないのだが、それはそれなりに豊かな時間でもある。今後起こり得る非常事態について悪い方向へ想像力を膨らませてばかりの日常に、どうやって楽しい想像を織り込んでいくのかが課題だ。部屋にいても干潟の風景を思い出すこと、鳥たちが各地で休みながら北へ向かう姿を想像すること、また秋が来て鳥たちが干潟に戻ってくるのを待ち遠しく思うこと、などを生活に織り込んでいきたい。こんなことを大真面目に書かなければいけないくらい自分は弱っている。参ったな。

春が来たらカヌーのセルフレスキュー講習を受けるつもりだったが、いまの状況でイベントを申し込んでよいのか分からず保留している。川や海に漕ぎ出していくのは、しばらく先送りになる。春の暖かさにぼんやりしてしまって言葉が出てこない頭を少しづつ目覚めさせて、日々の些事をまた大げさに膨らませて書いていきたい。自分の想像で勝手に楽しんで立ち直っていくのもセルフレスキューと呼んでいいだろうか。春だからどんな訳の分からないことを書いてもいい。