年月

「短編」第52期参加・優勝作品(2007年1月12日)
http://tanpen.jp/52/13.html


 新しい蒲団と少ない荷物が置かれただけの小さな部屋に暮らしはじめた。空気の乾いた季節、わずかに残っていた湿気も窓枠に凍りついては解けて乾き、陽は差さないが暗がりという訳でもない、そのような冷たく乾いたところに僕は蒲団を敷いたままで立ち上がり、外の雑木林を眺め、座り込んでは眠ることを繰り返していた。樹々を揺さぶる空気の流れはやがて部屋に入り込み、一巡りして外へ出る。僕自身が外へ出る必要性は感じないのだった。陽の光にほとんど当らない生活ではあったが、一度、真夜中を過ぎた時刻に顔を照らされて目を覚まし、隣接する棟との間、狭い空に浮かぶ白い半月を見た。ああこれが下弦の月というものだなと考えて目を瞠った。月もまた冷えきって白く乾いた場所であると思った。この部屋に暮らすかぎりは僕が月を訪れる必要性は無いのだと考えながら眠りについた。

「短編」第51期参加作品(2006年10月26日)
http://tanpen.jp/51/28.html


 大学に二十二年前から常駐している警備員氏と話したのは、前期試験も終りかけた頃のことだった。以後一度も姿を見ないのは僕が余り学校に行っていないせいだけれど、雨が降らないと登校する気になれないのは、普通ではないなと思う。あの朝、未舗装の泥濘んだ駐輪場を長靴で歩き廻る彼に、何気なく挨拶をして教室に向かい、地理学の試験を終えて駐輪場に戻ったところで呼び止められた。傘を差した学生達が周りを行き交う中、灰色の制服に透明の雨合羽を着込んだ彼は雨でふやけたような顔で笑い、試験や夏季休暇についての話題の後、訥々と昔語りを始めた。彼がこの校地に着任したのは五十六歳のときで、現在は七十八だと言った。

 多摩校地が竣工した一九八四年は、僕が生れた年でもある。当時、学生運動が沈静化して数年が経ってはいたものの、都心の校地には依然として多くの活動家が居り、多摩での授業開始に合せて押し寄せて来ていた。ヘルメットと角材で武装した学生達が構内を歩き廻り、やがて連行されていく姿を彼は眺めていた。取り押さえるのは警備員でなく警察の仕事だった。昭和天皇が崩御したときには別の集団が多摩地域に流れ込み、それを追う機動隊が警杖と盾を携えて校地までやって来た。程無くして近くの山中に在るダム湖のほとりから迫撃弾が発射され、弾は御陵に届くことなく終り、多摩の学生運動もこの頃には下火となった。

 彼の話は次々と移り変わり、この校地で知り合いの七年生が最近ようやく卒業見込になったこと、以前はバイクで通勤していたが現在は電車で来ていること、彼の娘婿が交通事故の後遺症で亡くなったことなどを静かな口調で話した。話が途切れて十数秒の沈黙となったとき、僕は言葉を巧く挟むことができずに次の話を待つか、大して意味を持たない一言や二言を発していたように思う。僕も事故で足を折ったけれど今は快復している、と話し、無事でよかったと彼は頷いた。或いはまた彼が経験してきたことに気の利いた言葉を返そうと試みることが非礼に当るのではと思い、あとは聴くことに徹するばかりだった。僕は優れた聴き手などではなく、寡黙で不器用な聴き手だった。雨合羽に当る雨はいっそう強まり、それではまた、と彼は詰所のほうへ歩き去った。取り残されたような気持になって自転車に跨り、長い坂を下り始めると雨粒が顔に鋭い痛みを浴びせた。坂が終ると痛みは収まり、雨でふやけた手と顔が残された。

上空

「短編」第43期参加・予選通過作品(2006年2月26日)
http://tanpen.jp/43/21.html


 北東の冷湿風を堰きとめる陣馬の山体から雲が涌き上り、白い雪を武蔵野陵に積らせる。雪のなかで昭和天皇は昏々と眠る。現人神だった彼が崩御した後に火葬されたなら骨が遺されたはずで或いはまた土葬であったとして白い骨は遺されている。その上空は常に青いのだが、青色が映りこみ、骨は仄かに青白いように思われる。

 御陵の所在地が多摩南西部の八王子市長房町であると知ったのは偶々僕が宅配寿司の仕事についていた為で、休憩中に賄いの赤身を醤油に浸し頬張りながら、眺めていた市域の住宅地図から探しあて、何故だかふと烈しい罪悪感に苛まれたのだった。御陵は参拝者が制限されていることもなく所在地は秘匿に扱われてなどいないが、何か不可侵であるものを遠い上空から偵察衛星によって不意に覗き込んでしまい狼狽したかのような、不可解な錯覚に囚われていた。

 四畳半に引き籠る日々とオートバイで寿司を運び続ける循環に追われて眼の端を疲労に歪め、赤い眼で眺める住宅地図はあまりに白く、配達先の老人が天皇のような神々しい笑みを湛えていたことに平伏したくなる気持で充たされて蒲団に潜り、蒲団の中で考えを巡らせたことといえば、御陵周辺の山々には新旧入り交じった複数の霊園が散在し多数の墓があり、各々が無数の骨を内包しているが許容量を溢れた分についてはその場所を離れ、白い骨から雲へ、また雪へと還流しているのではあるまいかと、そのような他愛もないことだった。雪が降り、無数の人が降り注いでは乾いていることになる。その乾いた土地にこれもまた白く乾いた皮膚の老人が天皇のような表情で平然と歩いている。僕は青白い顔と赤眼のままで白い蒲団に潜り、昏々と眠る。

赤土に死す

「短編」第24期参加作品(2004年7月26日)
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 民宿の小さな露天風呂に浸かって空を眺めていたとき、柵を飛びこえて青いねこが現れた。  あとでよくよく見れば紺を帯びた黒ねこだったが、西北西からの強い月光にさらされて青く輝いて見えたらしい。  輝くといってもそんなに綺麗なねこではなかった。

 それから私がどこへ行こうとも後を尾けてきた。汽車で一日に百キロを移動したときさえ翌日には土産物屋の軒先にいて店主とじゃれついている。あるときは拾った車の座席にちょこんと乗っている。海辺で魚をくわえていたり、昆布に絡まっている。山頂では高山病にかかっている。私が東北を旅行しているあいだ毎日一度は必ず姿を見せたのだった。近付いていくと警戒する素振りをみせず隠れようともしない。どうやって移動しているか訊ねると、ねこは、一時間に四キロ歩いていれば一日に百キロだと言った。

 青森りんごを手土産に東京へ戻ると、部屋にねこがいた。  互いに睨みあい、りんごを投げつけようか、齧ろうか迷った。 「長いことお前を見張っていたが、やはり殺さなければならない」 ねこは言った。

 どうしてそんな目に遭わなければならないのか理解に苦しんだものの、そういえばりんごは果樹園から盗ってきた物だったし、宿賃もちゃんと払ってはいないなと思い当たる節はいくつかあった。でも、ねこだって宿賃を払っていない。殺されるほどのことをしたんだろうか。考えをぐるぐる廻らせながらりんごを齧り、話を聴きながら一つを食べ終えた。  あるいはねこはりんごを食べるだろうか。食べれば、彼は落ちつくのか。

「わたしは未来からやってきた、からくりねこだ」 へええ。 「与えられた任務を遂行するのだ」 そんな。 「この殺鼠剤をつかえば……」 私は人間だ。 「武器をとってくるから待ってろ」

 そう言い残してねこは、机に飛び込み、未来に帰った。  殺されたいとは思わない私は、引き出しに鍵をかけ、その鍵をアパート裏の畑に埋めた。  青空に東京の赤土がよく映えた。

海から

「短編」第23期参加作品(2004年6月26日)
http://tanpen.jp/23/18.html


 窓から手を伸ばして枝を折り取った。セミが鳴き止み、陽射しは容赦なく葉を焦がす。帽子を被らなければ、すぐにも顔が赤く灼けそうな日だった。階段を飛び降り、戸を開く。

 先行するクロスバイクの細いタイヤは融けることもなく黙々と回り、僕はチェーンが軋みをたてる中古で買ったばかりの実用自転車を走らせた。路面から受ける輻射熱に視界が眩み、時々強く目を瞑り直した。時間が流れることをぼんやりと捉えつつ、通り過ぎた道、部屋で聴いた歌、そんなものが思考を巡り続ける。  街路樹の根元から猫が飛び出し、アスファルトの熱にとびはねた。翔が初めてこちらを振り返り、口元を綻ばせ、前に向き直った。まもなく猫は反対側の畑へ飛び込み、その一部始終は、蜃気楼の水たまりから逃げ出すようでもあった。

 緩やかな坂を登りきった時、唐突として海が現れた。腕時計をみれば1時間も走っていない。乾ききった砂浜に乗り入れていくと膝まで砂に沈み、翔が荷台からゴムボートを降ろし、僕はふたつの自転車に砂をかけ、フレームに括っておいた枝を目印として突き刺す。鍵は持ってきていない。  気が遠くなるくらい、遠くまで続く波打ち際を歩く。その海岸を横切るふたつの川を目指した。相も変わらずに翔は一言も喋ろうとしない。どうにかして喋らせようと石を投げてみたくなり、けれど足元には水がしみて固い地面があるだけだった。漂着した昆布や、貝殻のたぐいさえ見つからない。

 紺碧の海とは対照的に、無色の透きとおった水が流れていた。あるいは、と思って川の水を掬い、すこし口に入れる。汽水域であるためか味は薄い。水面はむやみやたらに光を反射させるばかりで魚影も見当たらない。そもそも釣竿なんて無いけれど、退屈を紛らわす何かを必要に思った。  川原を見渡してみても消波ブロックの他には何もなく、持っていけそうな物は帽子だけだった。  ボートに空気を送り込み、それが一人乗りであることに気付く。翔が何を考えて持ってきたのか解らない。戻ろうか、そう声を掛けると、黙りこんだまま翔はボートに乗り、岸を蹴った。歩くより緩やかに流れる。どうしてよいのかわからない僕は目を瞑り、部屋で繰り返し聴いた歌を思い出していた。翔が、ようやく返事をした。

「戻ってくるよ」

 川は海へ流れ込み、海からどこか、低いところに川は流れていく。