卒園式あいさつ

子どもの通う保育園で卒園式があり、父母代表のあいさつをしてきた(自分の子どもはまだ4歳なので見送る側)。上がり性のために、まともに話せた気はしないのだが、原稿をここに書き残しておこうと思う。

神谷美恵子『ハリール・ジブラーンの詩』は図書館で借りてきて、いま読んでいる。

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△△組の皆さん、保護者の皆さま、ご卒園おめでとうございます。
ご来賓の皆さま、先生方におかれましては、お忙しい中、ご臨席をたまわり、誠にありがとうございます。
いつも子どもたちを温かく見守っていただき、心より感謝しております。

本日は父母会を代表してのご挨拶ということで、保護者の皆さまへ、私が大切にしている一冊の本をご紹介します。写真家、星野道夫さんの『長い旅の途上』という本です。星野さんのお子さんがまだ一歳にもならない赤ちゃんのときに書かれた文章を、少々ここで引用したいと思います。

『子どもの瞳に、親の存在などと関係なく、一人の人間として生きてゆく力をすでに感じるのはなぜだろう。そんな時、ふと、カリール・ギブランの詩を思い出す。――あなたの子供は、あなたの子供ではない。彼等は、人生そのものの息子であり、娘である。彼等はあなたを通じてくるが、あなたからくるのではない。彼等はあなたとともにいるが、あなたに屈しない。あなたは彼等に愛情を与えてもいいが、あなたの考えを与えてはいけない。何故なら、彼等の心は、あなたが訪ねてみることもできない、夢の中で訪ねてみることもできない、あしたの家にすんでいるからだ――』

ここまでが、星野さんの本と、そこに書かれている詩の引用です。小さな子どもであっても、すでに親からは自立している一人の人間なのだ、ということが書かれています。

○○保育園の6年間で、子どもたちは見違えるように大きく、たくましくなりました。これから小学校に入り、さらに活発に、勉強や遊びを頑張っていくことと思います。子どもの成長に対して嬉しいような、少し寂しいような気持があるかもしれません。私たちはこれから子どもたちに対して、いつもそばにいて愛情をもって見守ってあげること、それが一番、大事なことなのだろうと思います。

今日こうして子どもたちが無事に卒園の日を迎えることができたのも、保護者の皆さま、そして、○○保育園の先生方に、温かな愛情をもって見守っていただいたおかげです。本当にありがとうございました。

○○保育園のますますのご発展と、先生方のご健勝をお祈りいたしまして、簡単ではございますが、私の挨拶とさせていただきます。

 

長い旅の途上 (文春文庫)

長い旅の途上 (文春文庫)

 

 

 

川野

「短編」第67期参加・予選通過作品(2008年4月12日)
http://tanpen.jp/67/26.html


 荒川で友人と釣りをしていると、川下から静かに永谷園のお茶漬け海苔が流れてきた。ビニールの外装に包まれたそいつを拾い上げ、個装の紙袋が濡れていないのと、賞味期限まで二年以上あるのを見て、再び川に浮かべた。そしてしばらく笑い転げながら不思議に思ったのは「川下から」流れてきたことだった。流れのほとんどない下流域とはいえ、風もなく帆も張らないのに遡行できるものだろうか。何より可笑しかったのは、川面に浮かんでいたのが綺麗な未開封のお茶漬け海苔、ということだった。

 十年後、僕は地理学科の学生になり、友人は二児の父親となっていた。あるとき唐突に、結婚するぜ、とメールを寄越して、何事かと友人のアパートに行けば、五歳と三歳くらいの子どもが走り廻っている。子連れの女性と同棲を始めた彼は、何もしていないのに子どもを儲けたのだった。僕は子どもたちと一緒に絵を描いて遊び、麦茶をこぼした服を着替えさせ、手慣れてるねえと友人の彼女さんにひどく感心された。

 友人のアパートは中川沿いの低地にあり、暮らすにはよいところだが、大雨が降ると膝の辺りまで水に浸かる。台風のときには溢れそうなほどに中川の水位が上がった。もしも溢れたならアパートは押し流され、辺りが海のような光景となるに違いないけれど、それはきわめて自然なことでもある。大昔には海水に浸かっていた場所が、海退によって「土地」となったが、それが再び海に戻るだけのことだと思った。僕の暮らしている荒川沿いの低地は、やはり六千年前には海だった。あるいは一日のあいだにも海は満ち干を繰り返していて、河口から二十キロも離れた浦和における荒川の水位が、潮位の変化に合わせて上下しており、川下から川上に向かって水の流れる時刻がある。

 川面を行き来するお茶漬け海苔は、水に揉まれて海底にも固い地表にもなる土地のようだな、と、友人に話したとしても何のことやら皆目判らないだろうし、自分でもつまらない喩え話だと思っているから話さずにいる。土地がいつか海に戻り、お茶漬け海苔がいつか流されて海に戻り、僕と友人がいつかの釣りをしていた中学生には戻らないことも、ひどくつまらない当り前のことだから話さない。話さないけれど僕自身が忘れないように書き留める、ただそれだけのことで、忘れたからといって困りはしないし哀しくはないが、書き留めておけば、あとで読み返した僕と、僕の子どもたちが愉しい。

海退

「短編」第66期参加・予選通過作品(2008年3月12日)
http://tanpen.jp/66/17.html


 勤めていたカメラ屋に長い休暇の届けを出して、海に向かった。何日か何週間後か判らないが、海に足を浸すことができれば、すぐにも帰ると書き残してきた。了承を得られたかどうかは判らないが、一応、帰るべき場所はある。遠い海に続く幹線道路に立つと、時々、荷台にドラムバッグを括り付けた原付などが通り過ぎるのみで、乗せてもらおうと親指を立てても大きく手を振り返されて終わる。舗装路に薄く積もった灰色の砂埃が、原付のタイヤにまとわりついて離れないのを見る。遠ざかるエンジン音が正体不明の羽虫のようだと思い、鼻孔をくすぐられ本当の羽虫がいることに気付いた。静かに呼吸をする。

 僕が長らく自宅と職場に引き籠っていた間、季節は緩やかに巡り、薄日の射す天候が続きながらも木の葉は徐々に色づき、同時に海岸線は遠のいていった。漠然とした心持で遠くの干上がった海を夢想し、干上がった魚が市街に運ばれる様を思い浮かべるが、あるいは職場の休憩室で眠りに落ちるまで読んでいた短編の一節ではないかと思える。春先の黄ばんだ空が目に焼きついたせいか、補色である青の深まりを見せる現在の空が、濃度をさらに増して黒に近付いていくことを、なんとなく腑に落ちるように理解できるなら、海が遠ざかるより早く波打際に辿り着くべきだと結論を見出せる。

 過去に幾度も繰り返されているはずの海退を、目の当りにしている現在、普通の生活をすることには意味がない。海水が退いていくとき魚は一緒に流れていったのか、海藻に産みつけられた卵は残されたのか、それらの疑問が、僕の実生活には何の関わりもないけれど、事実を目に焼きつけたかった。それを書き残すこともなければ、写真に収めることもしないが、僕を拾いあげて海まで運んだ人々には何かしらの記憶が残るだろう。僕が魚と一緒に流れていったのか、陸地に取り残されたのか、記録には残らないほうが面白い。

 未だ海に辿り着くどころか、乗せてもらえる車一台さえ見つからないというのに、想像のなかで僕は頭から波をかぶって喜んでいる。再び鼻孔をくすぐられて我に返り、羽虫を追い払うが、乾いた空気中で湿りを求めているのだと思えば無下に殺すわけにもいかない。しばらく羽虫と格闘していると、羽音に紛れて一台のピックアップトラックが接近していた。左手を挙げて車を停める。助手席に乗り込むと、日焼けした初老の運転手は、海辺の町に帰るところだと言った。

沼蝦

「短編」第64期参加・優勝作品(2008年1月12日)
http://tanpen.jp/64/17.html


 新月の夜にヤマトヌマエビが全滅し、水槽の底砂にころりと転がっている様が昆虫のようで薄気味が悪いと思ったが、恭しく新聞紙にくるんで手を合わせた。土に埋めてしまおうかとも考えたが、厳冬期ゆえ分解はされないだろうと火曜日に荼毘に付した。要は燃えるごみの日に清掃車へ投げ込んだのだが、それも手を合わせれば赦されるだろうか。私とてヌマエビを死なす意図はなかったのだし、幾度かの脱皮を経て成長したあかつきには唐揚げにして食べてもよかったのだが、手を下すより早く、勝手に死んでしまった。この突然死は、新月の頃に起きやすいという脱皮不全であるらしい。

 正月が明けきらないうちの新月といえば、正に新たな月であるから縁起がよさそうなものだが、本当のところは満月の対に当たる。月明かりのない夜に脱皮する習性をなぜに身に着けたのか、私には解らないが、六十センチ水槽の水底において彼らが潮汐力の変化を察知していることは理解できる。サカナのような浮き袋を持たない彼らが水中に浮揚できず、手脚の動きを止めれば(手と脚の判別もつかないが)水底に降りていく彼らが底物と呼ばれ、これを大気との対比で書き表せば、空中に浮揚する飛行船と、底物として見上げる人間のようだと思う。違いといえば私が足掻いても空をちっとも飛べないことくらいで(これ以上は金子みすゞの領分)、本当のところは潮汐によって私と彼らは無自覚に影響されている。

 新月の夜に犯罪率が高まるという統計が、直接的には私の犯罪に繋がりはしないが、たとえば脱皮も産卵もしない私が昂奮のあまり自殺や他殺を企図したとしても、理解のつかないことではない。あるいは川に飛び込んでサカナの群れに混じったところで手脚の動きとは関わりなく水底に降りていくことになる。いや本当のことをいえば(などと小説で書くのは妙だが)、私は先述の統計を知っている時点において潮汐に無自覚ではないのだから、ヌマエビはヌマエビ、私は私だ。潮汐、月や太陽の運動に左右されて私が何かをすることはなく、関わった犯罪といえばヌマエビを死なせた程度のことで、それも過失致死であって殺したのではない。ただ、死んだあとにまで底砂に横たわって底物の命を全うすることもなかろう、水面に浮上しなければ、それこそ浮かばれないではないか。

 水槽を眺めながら慣れない一人称を使って小説など書いていると、気が滅入って、エビと一緒に気分も沈んだ。

回送

「短編」第56期参加・優勝作品(2007年5月12日)
http://tanpen.jp/56/22.html


 午後十一時を回った頃、武蔵野線の汽車を待ってプラットホームに立っていると、見慣れない古びた機関車が長編成の客車を牽いて「回送」と行先標示を掲げながら通過していった。客車には勿論のこと誰も乗り合わせているはずはないが車内には白い灯りが煌々と点ったままとなっていて、各々の車両には誰に示す為であるのか白地に黒い文字の「回送」が光り、目の前をそれらが通過するたび追っていたうちにいつしか自分が視られている気になり、回送の「回」の字は、目を象った記号ではないかと思われてくる。幾つもの目が次から次と、こちらを睨みながら、送られてきては去ってゆく。目、といえば、それも成り立ちは象形文字であったと記憶しているが、目、と書くよりは、回、と書いたほうが幾らか実際の目には近いように感じられる。或いはまた、目は口ほどに物を言う、と慣用句にあるが、回の字には口という字が二つも含まれている。それならば回の字はべつにこちらを凝視しているのでなく、口が二つ合わさっている、または、接吻をしていると考えられなくもないが、しかし接吻をするには二つの口の大きさは合わないようでもあり、口付けをすると見せかけて相手を呑み込もうとしているのでは、などとも考える。しかしよくよく見てみれば口という字も象形文字にしては随分と雑な造りをしている。唇のこれだけ薄い人間があろうか。ということは回の字はいまこそ口を表す漢字として採用されるべきである。回、と書いてみれば、これはなんだか唇の厚い女が、唇を尖らせているようである。そして回と回とが合わさって接吻をしたところで二つが一つに重なるのだから回のままである。しかしながら回を送って回送とは如何なる意味だろうか。今一度、目の前を流れてゆく回送列車に目をやれば、誰も乗り合わせていないと見えたのは誤りで、各々の車両には幾つもの回が光り、或いは回を尖らせて、こちらを凝視しながら、こちらを呑み込もうと大きく回を開けて構えていた。俺もまたこの蠱惑的な回送列車に惹かれて目と回を合わせ、唇と回を重ね、相手を呑み込んで一つに重なりたい衝動にかられて列車に吸い寄せられる。このとき自分の目には回送の標示が点っていたと思われる。回と回はこちらを呑み込むことなく行き過ぎてゆくばかりだった。俺は目を潤ませ、唇を尖らせながら、武蔵野線の汽車を待って立ちつくしていた。回送列車の回はやがて車庫に吸い込まれた。